ススキを吹き抜ける冷たい風が夕香の長い髪と月夜の長めの髪を優しくなぶった。
 ぽたぽたと落ちる雫は紅く、白銀の刃も同じように紅く染まっている。
 ――そう、まるで、暁の様に。
 刃が月夜の腕に食い込み骨でその進入を食い止めていた。
 ぎりっと奥歯をかみ締める音が異様な静寂の中響き渡った。と、共にがりとかける音も
した。
 夕香はいまだうつろな目で無造作に刃を引き抜き後退った。月夜は間一髪で腹を守った
右腕を抱えながら地面に膝をついて欠けた奥歯を吐き捨てた。血が、とめどなく流れ、指
先まで赤く染める。
「……」
 何も言わない白空に疑問を感じつつもその顔を見てみると先ほどより色を失っている。
まるで、術を返されたみたいだ。夕香が返したのだろうか。
 夕香に目を向けると夕香は首を振ってまた刃を月夜にかざした。だが、その手は力を失
い持っていた短刀はカランと音を立てて地面に落ちた。
 どうやら夕香が術を返したわけではなく、返された術の反動を受けた白空の支配から逃
げたということだろう。見たところ、まだ、支配はあるみたいだ。
「何で」
 がくがくと震える体を抱いて夕香は月夜と同じように膝をついて救いを求めるように月
夜を見た。
「どうして?」
「知るか、馬鹿狐」
 そう吐き捨てると痛みをこらえて立ち上がった。今なら出来るかもしれないと白空を指
差した。その仕草は人間らしからぬ威厳に満ちた動作で夕香も白空でさもその動きに目を
奪われていた。
 まっすぐと白空を見つめ殺気に近い霊力を吹き荒らし、疾風が白空を襲う。
「消えよ」
 その声が強力な言霊になった。またいつぞやのように白空の足元に扉を作ってどこか異
世界に落として消した。
「夕香」
「こないでっ」
 ぴたりと足を止めて夕香をひたと見た。体を抱いている夕香とそれを見下ろす月夜。月
夜が手をさし延ばしたときだった。夕香の目つきが変わった。まずいと思ったときには遅
かった。
 どっと鈍い打突音と共に液体がばら撒かれたような音が辺りに響き渡った。紛れもなく
月夜の血液が地面を赤く染めていた。
「とち狂いやがってよ」
 貫かれた腹を感じて夕香を見てふっと弱弱しく破顔した。急速に月夜の瞳から光が失わ
れる。夕香はそれを見ることしか出来ずに意識を失った。
 夕香が意識を取り戻して最初に見たのは美しい女の顔だった。どこかで見たことがある
のと、やけに体が寒い。
「寝ている暇があるのか、小娘」
 その尊大な物言いに龍神だと思い当たって起き上がった。隣にはもがいたのだろうか月
夜がうつ伏せで腹を抱えてうずくまっている。血が、あたりそこらじゅうを穢し体から零
れている血は止まりかけている。そしてようやく自分が何をしたのか気がついてカタカタ
と体を振るわせた。
「あ、いや」
 パニック状態に陥っている夕香に龍神は深く溜め息をついて定位置の祠の上に座り腕と
足を組んだ。
「そんなことをしてる場合か、小娘。まだ小僧の命はここにあるぞ」
 紛れもない真実であるのだがほうっておいたらその命もなくなるだろう。
 あの時、月夜の身体は同じように腹から出血しあわてて龍神に水から引き上げられた後
地面の上を転がってもがいてそのまま動かなくなったのだ。さすがにこのまま死なれると
面白くないと思った龍神は気まぐれな加護で月夜の命をつなぎとめていたのだ。
「さあ、何をする?」
「あたしは、癒せない」
「そうだ、普通に考えればだな。そうだ、外に薬居だとか言う女が来ているようだ。行っ
たらどうだ。神域を穢した罰だ。送ってやろう」
 尊大に笑って夕香の言葉を待たずに水の通力を使って川から流し森から出すと龍神はま
たどこかに消えていった。
 流された夕香は月夜を抱きかかえたまま水の冷たさにかろうじて正気を保っていた。
 龍神は怒っているのだろうか。雨がいきなり降ってきた。二人の体を強く打つ大粒の雨
は容赦なく二人の体温を奪っていく。
「日向」
 低めの女の声が頭上から降ってきた。寒さと失うこととやってしまった事の恐怖に身を
すくませたまま見上げるとやや蒼褪めた教官が手際よく月夜の呼吸を確認していた。
「あの馬鹿狐が」
 眉を寄せて教官は呟くと一瞬で月夜の傷を塞いで額に手を当てた。珍しくあせった顔を
している。
「まずいな」
 夕香から月夜をとって地面に寝かせるとどこかのポケットから貝殻を取り出して小指に
貝殻の中身を取って自分でそれをなめて月夜の唇と自分のそれをあわせて飲ませた。
 夕香は、今、自分が置かれている立場も忘れて呆然としてそれに見入った。黒革の軍服
のような服に包まれた背は女性らしさを秘めている。その背も雨に濡れる。髪が頬に張り
付く。
 しばらくして、離した教官は手の甲で自分の唇をぬぐい月夜の手を握って月夜の顔色を
検分している。夕香など見向きもしていない。夕香も教官に習って冷え切って氷のような
その手を両手で握って額に押し付けた。
「大神津実だ」
 突然、何も口にしなかった教官が口を開いた。夕香が視線を少し上げて応じると教官は
溜め息と共に貝殻に目を向けた。
「どこででてきたか、何かはわかるな?」
「はい。……古事記での伊邪那伎尊が黄泉に行って黄泉の軍勢に追われたときに軍勢を祓
った桃ですよね?」
 何故そんなものがといわずとも視線で聞いてくる夕香に教官は肩をすくめた。その反応
に首を傾げて夕香は胸に抱いた腕がピクリと震えたのを感じて驚いて月夜の顔を見た。
「……」
 幾分赤みが戻った顔を見て教官はふっと表情を緩ませて握っていた手をぱっと離して立
ち上がり夕香に背を向けてどこかに行こうとした。
「教官?」
 ふと立ち止まって夕香を振り返ってまっすぐ見た。雨の音が三人を包む。その雨を避け
ようともせずに凛と立つ教官はどこか強く儚く美しくも見えた。そして、その視線は夕香
を射るように鋭く、同時に何か温かいものがある。どこかあきらめたような普段の共感な
ら見せないような種類の表情を浮かべて夕香を静かに見ている。
「長く生きていると、たまたまそんなものが手に入るのだよ。……しばらくしたら、科内
たちが来るだろう。決して、現世に戻る事がないように。お前たちは戦犯として指名手配
されている」
「なんで?」
 月夜の手を抱いたまま夕香は目を見開いて立ち上がりかけた。その動作を片手でさえぎ
って教官は幾分視線を落として溜め息をつき目を伏せる。
「白空の策略によって妖と術師の全面交戦が始まる。決して、つかまるんじゃないぞ」
 最後の言葉に力が込められているのに気がついた夕香は唇をきっと引き結んで力強く頷
いた。
 それをみて教官は幾度しか見せたことのない優しい笑みを浮かべて目を細めた。そして、
じゃあなと片手を軽く振ってどこかに消えていった。どこに行くのですかとは聞けなか

った。いつもとどこか違う教官にそれだけは聞いてはならないような気がしたのである。
「教官」
 くっと手を握り締めてぱっと手を離した。月夜の白い手の甲を見てみると紅く手形がつ
いていた。反対側の手も見てみると、同じように手形がついていた。
「教官?」
 首を傾げた夕香の頬にそっと細い指が触れた。目を見開いていると辛そうに溜め息をつ
く音が聞こえた。
「ゆう……か」
 恐る恐る月夜の顔を見ると心底安心したような顔をしていた。目を見開いて恐怖に引き
つった夕香の顔を見て逆に月夜が笑った。
「なんて顔してんだよ」
 その指先が夕香の頬を行き来する。ともすればかくりと力を失いそうな腕の動きに夕香
はそっとその腕を支えた。
「月夜?」
 泣きそうな夕香を抱きしめてやりたいと思ったが体を動かす事は叶わずにその頬をそっ
と包み込んだ。夕香の頬が温かく感じるのは手が冷え切っているだけだろうかと違う事を
考えつつも目を細めた。
「無事か?」
 自分が言う言葉ではないとわかっていたが安否を気遣わない訳にはいかなかった。その
言葉に夕香の目はさらに見開かれその頬に涙が滑り落ちる。
 それをともすれば持っていかれそうな意識の中で見た。視界が白っぽくかすんでいるの
は貧血のためだろう。涙を流し始めた夕香がこくんと頷くのを見て月夜は深く溜め息をつ
いた。かろうじて繋ぎ止めていた意識が急速に薄れ、色を失っていく。
「よかった……」
 深い声音と共にふっと落とされた目蓋が眦にたまっていた雫を切り落とし、雫は頬や髪
を濡らしていた雨粒と交じり合いどこかに流れていった。
「月夜?」
 その雫は、月夜自身の涙なのか、ただの雨粒なのか、それは本人にも、無論、夕香にも
わからなかった。




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